伝統的制度観から絶対主権論へ

『一七世紀イギリス憲法思想史』安藤高行

 ホッブズは周知のようにその全体がクック論ともいうべき『哲学者とイギリスコモン・ロー学者との対話』や、『法学要綱』、『市民論』、『リヴァイアサン』、『ビヒモス』等の主要著作において、直接、間接にクックを鋭く批判したが、それはホッブズからすれば必然的なことであった。何故ならホッブズは伝統的なイギリス憲法思想こそが内乱をもたらしたと批判し、この憲法思想を自己の新たな憲法論によって克服しようとしたのであるが、彼がこのように内乱の思想的原因とした伝統的なイギリス憲法はイギリスコモン・ローの一部であり、クックは当時その最高権威とみなされていたからである。(p03)


 このようにその評価をめぐってホッブズとクックがライバル関係にあった伝統的なイギリス憲法は、通常「均衡憲法」と称されることから明らかなように、国王の専権的管轄に属し、彼が自由に裁量し得る公権事項と、その領域においては国王も法に拘束される私権事項との「デリケートなバランス」によって構成されるそれであった。アメリカの政治学者で、イギリスの中世および近代の憲法思想史の研究を精力的に開拓したマクヮルワインによれば、この、公権事項と私権事項の均衡を説き、そこにこそ国王と臣民の繁栄の契機があるとする伝統的な憲法論は、「国王は人の下にあるべきではないが、神と法の下にあるべきである」とした一三世紀中期のブラクトン(Henry de Bracton)にはやくもその例がみられ、また一五世紀にフォーテスキュー(Sir J. Fortescue)が、イギリスの憲法は、自ら作る法によって国王が統治する dominium regale と、国民が同意する法によってのみ国王が統治する dominium politicum との混合、すなわち dominium politicum et regale という最も理想的な憲法であるとして、それを礼賛したのもその例であったとされる。(p03)


 均衡憲法思想の淵源をこのようにブラクトンやフォーテスキューにみるマクヮルワインの見解には必ずしもにわかには賛成し難いが、クックの時代にはすでに伝統的なイギリス憲法論となっていたこの均衡憲法論が、イギリスにおいては統治権は国王がもつが、国王のこの権力は全能ではなく、一定の制約に服するという中世的な制限王政思想の系譜に連なるものであることは確かであった。
 ところでこのように公権事項と私権事項の均衡を説く憲法思想は観点をかえていえば、国家の権力構造を一元的に整序する主権概念をむしろ積極的に排除するそれであった。そしてフランスでボーダンが国家の標識としての絶対かつ恒久の権力=主権について力強く語ったまさに一六世紀に、テューダー王政下のイギリスではこのような憲法論がイギリスの正統憲法思想として明確に主張され、また認識されて伝統憲法論となったのである。たとえば一方で国王は絶対的・一身専属的に国王大権を有するとしながら、他方で議会もイギリス王国の最高・絶対の権限をもつとしたスミス((Sir T. Smith)の『イギリス国家論』はその典型的な例であった。(p04)


 ホールズワースは、このヘイルやクックの見解が結局勝利したことが、たとえイギリスの国家・法理論から――ホッブズの理論が勝利したならばもたらされたであろう――明晰さと確実さを失わせたとしても、立憲政治の確立やコモン・ローの秩序ある発展のための前提条件である政治・法思想の連続性を保持するという有用な結果をもたらしたとしている。
 しかしこの表面的な連続性にもかかわらず、イギリス憲法はその内実においてはピューリタン革命によって根本的な変革を余儀なくされ、均衡する複数の権力主体の一致による統治という多元的な権力構造は一元的なそれに移行せざるを得なかったのであった。ホッブズはこの変革を最もラディカルにうけとめ、新たな国家像と人間像をもってそれに対応しようとした思想家だったのである。ただホッブズにおいては人間が国家によって平和と安全を確保するにはまず国家がほぼ全面的に人間を支配することが必要であった。国家によるほぼ全面的な支配を前提としてのみ人間の存在と自由があり得るというこの関係を逆転させ、国家における人間の存在と自由により安定した地位を与えたのがロックであった。(p25)