性的人格権

『岩波講座 憲法3 ネーションと市民』杉田敦

 フェミニズム憲法  中里見博

 今日の性売買では、明白な物理的・経済的な強制によって女性や子どもを調達するもの(人身売買)と並行して、文化的・間接的な強制によって女性の外形的・形式的「合意」に基づくものが発展している。だが、女性の外形的「合意」に基づくものであっても、性売買は、その内と外の女性に対する暴力の原因となり、かつ女性の性的客体物化、女性の二級市民化を推し進める女性差別の制度として機能している。性的自己決定権は、そのような現代の性売買に適用されると、文化的・間接的強制を不問に付し、性売買の内外で生じている暴力と差別を例外視し、性売買を原理的かつ実際的に強力に肯定する権利として機能する。このとき性的自己決定権は、「決定」という外観・形式においてのみ捉えられ、「いかなる性行為か」という実体・価値論の側面を失っていった。(p206)


 人の〈性〉が〈人格〉と深く結びついているとするなら、人の尊厳を確保するためには〈性〉は〈人格〉と切り離されるべきではなく、むしろ〈人格〉を構成するものとして積極的に位置づけられる必要がある。そのような位置づけにある人の〈性〉は、たとえば労働と同一視されるべきでなく(「性=労働」(セックスワーク)論の否定)、法的にも〈人格〉の構成要素として労働以上に厚く保護されるべきである(人格的権利としての〈性〉、ないし「性的人格権」)。
 性的人格権は、身体保全権であると同時に精神的・人格的権利であるから、単なる身体的自由権、単なる人格権ではなく、その両方の権利を結合した権利である。したがってそれは、一切の権力――公権力のみならず、夫の権力、親の権力、上司の権力、そして何より経済的権力による強制――から自由が保障されなければならない。すなわちそれは、性が金銭によって買い取られることを否定するものである。それゆえ、他人の身体を性的に使用する権利を金銭で買い取る行為、具体的には買春者、売春業者、ポルノ制作業者等による他人の性的使用権の売買行為は、他人の性的人格権を侵害する行為と評価されるであろう。(p207)


 「支配=不平等」説の導入によって決定的な視点の転換が生じるのが、ポルノグラフィの問題である。現在、ポルノグラフィのもたらす性的不平等、女性の社会的従属が的確に捉えられていないからである。マッキノンは次のように指摘する。

 ポルノグラフィによる被害は、広くいって、男女の市民として不平等という被害であるのだが、それが両性の差異として受け入れられてしまっているがゆえに、被害とは気づかれない。

 ここで批判の対象にされている「ポルノグラフィ」とは、性表現一般ではなく、主に女性を性的に露骨なかたちで差別的・従属的・見世物的に描き、現に直接・間接の被害を生んでいる映像・図画・文書のことである。そのような内容のポルノグラフィは、不平等なセクシュアリティを男/女間の自然な「差異」とする社会観念を強力に産出し、維持・強化する。ところが、社会のセクシュアリティ観そのものがポルノグラフィの影響をあまりにも強く受け、ポルノグラフィのセクシュアリティが社会標準化されてしまっているがゆえに、その性差別性――他の性暴力との不可分性、ジェンダー再生産における役割、女性の市民的諸権利に与える影響など――を社会全体が認識できなくなっている。その結果、ポルノグラフィに関連して生じる深刻で膨大な具体的な権利侵害が権利侵害とは認識されない事態を生じさせている。(p210)