博奕は盗賊の所業

『中世の罪と罰網野善彦

 博奕  網野善彦

 博奕は諸悪の根源

 鎌倉期に入っても同様で、暦仁元年(一二三八)、四一半打について「公家・武家殊に御禁制あり」(「広峰神社文書」)といわれているように、公家・武家、さらに寺家・社家それぞれに、博奕禁止令は頻々と下された。その中で、嘉禄元年(一二二五)の公家新制は博奕禁止の理由を、宅財を賭け、喧嘩が甚しく、興宴が変じて闘殺に及ぶことに求め、延応元年(一二三九)の追加法も、四一半を「偏に是れ盗犯の基」とし(『中世法制史料集』第一巻、追加一〇〇条)、弘長元年(一二六一)の関東新制も「盗賊放火の族、多く以て出来」することを強調している。そして、弘長三年(一二六三)の公家新制では、ついに「諸悪の源、博奕より起る」とまでいわれるにいたったのである。
 これは博奕に対する当時の一方の見方を、端的に語ったものといわなくてはならない。この見方からすれば、博奕は盗賊・放火・殺害のもととなる「不善の輩」の所業であり(『東大寺文書』)摂津国古文書)、まさしく「悪党の根本」であった(前掲「鷹尾家文書」二五号)。それ故、十三世紀後半から一段とそのきびしさを増す幕府の悪党禁圧令は、同時に、四一半打などをはじめとする博奕の禁止を内実に含んでいたのである。(p114)