二つのアナキズム

チョムスキーの「アナキズム論」』ノーム・チョムスキー

 ――こうした先例はリバタリアン思想の適用可能性が産業革命以前の段階――技術や生産がとても素朴で、経済組織がどちらかといえば小規模でローカルな田園社会を前提にせざるをえなかった段階にとどまっている、ということを示していませんか?

 これについてふたつにわけて論じましょう。ひとつは、アナキストがそれについてどう考えたのかということ、もうひとつは私の考えです。アナキストの対応についてはふたつあります。アナキストの伝統のうちのひとつは――クロポトキンが代表的な人物だと考えられるでしょう――あなたが説明したようなリバタリアン思想の性格がおおよそあてはまります。その一方で、もうひとつのアナキズムの伝統があります。それはアナキストの思想を、とても複雑な先進産業社会にふさわしい様式の組織形態であると率直にみなすアナルコ・サンディカリズムを発展させました。そしてその潮流はアナキズムに合流するか、少なくとも左翼マルクス主義と非常に緊密な関係にありました。こうしたことは、たとえばローザ・ルクセンブルク派の伝統のなかで育まれた評議会共産主義のなかに、また、産業世界を構成する一員の科学者、天文学者でありながら、後年は労働者産業評議会の理論を発展させたアントン・パネクークのようなマルクス主義者に見いだされます。
 どちらの見解が正しいのでしょうか? アナキズムの考え方を産業革命以前の段階の社会にとどめる必要はあるのでしょうか。あるいはアナキズムは高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方なのでしょうか? 私は後者だと思っています。産業化と技術の進歩は、以前の時代にはまったく存在しなかったような広範囲な自己管理の可能性を開くと思うからです。これはまさしく、進歩し複雑化した産業社会にふさわしい合理的なあり方なのです。そこでは労働者が差し迫った問題にみずから対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済のしくみや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定をおこなえるような地位を得るのです。現在では、既成の制度は労働者が必要な情報をコントロールすること、そして状況を理解するに適切な訓練を施すことを認めていません。多くのことがオートメーション化されるようになるかもしれません。適切な水準の社会生活を送るうえで求められる必要労働の多くは――少なくとも原理的には――機械に委ねることができるようになっています。こうした手段の機械化は、人間が産業革命の初期の段階ではありえなかったような創造的労働を、客観的には自由にできるようにしました。(p235)


 ――政治学の理論では、アナキズムは主にふたつの概念に同定されます。ひとつは、主にバクーニンクロポトキン、マフノといった人びとが提唱した、ヨーロッパ特有の、いわゆる集団主義アナキズムといわれるものです。もうひとつは、アメリカに特有の、いわゆる個人主義アナキズムといわれるものです。このような理論的な分類は妥当でしょうか? そしてこの視覚からするとアメリカのアナキズムの歴史的起源はどこにあるとお考えでしょうか?

 あなたのいう個人主義アナキズム、そのなかでもとりわけアメリカのいわゆる「リバタリアン」運動といわれるもののルーツのひとつは、シュティルナーのような人たちです。これは自由市場資本主義に献身するというものであり、他の国際的なアナキズム運動とは何の関係もありません。ヨーロッパの伝統のなかでは、アナキストは一般に、「リバタリアン」という言葉とは非常に異なる含意をもつリバタリアン社会主義を自称しました。私の知る限り、アメリカでは、アナキストを自称しない労働運動は、アナキストを自称した多くの人びとよりも、ヨーロッパ的なアナキズムと気脈を通じていました。産業革命初期から一八五〇年代までの労働者新聞をひもとけば、そこには真のアナキズムの傾向が見いだせます。(p406)