七年戦争におけるフランスや独立運動によって人権が発展

『イギリスの歴史を知るための50章』川成洋 編

 世界を舞台とした戦争

 七年戦争は、その規模が大きかったことや、戦火が地球規模にひろがったことで、いわば、20世紀の世界大戦を彷彿とさせるものであった。18世紀の戦争は「重商主義戦争」、20世紀の二つの大戦は「世界大戦」や「総力戦」として位置づけるのが歴史学の常識になっているが、七年戦争には、世界的なひろがりもあり、たんなる支配階級の権力争いを超えた、社会的な影響もあったし、なによりも、以後の世界の歴史的構図を決定する意味があった。その意味で、あえていえば、「最初の世界大戦」でもあったといえる。
 北アメリカでの戦闘は、フランス軍が先住民とともに戦ったため、イギリスでは「フレンチ・アンド・インディアン戦争」の名称でよばれることもある。インドでも、フランス東インド会社軍は、1757年のプラッシーの戦いで現地支配者と提携したが、クライヴ指揮下のイギリス東インド会社軍に敗北し、シャンデルナゴル、ポンディシェリの拠点を失い、ベンガルを拠点としたイギリスのインドにおける覇権が確立した。戦争は1763年に終結し、英・仏・スペインの三国間でパリ条約が締結された。(p159)


 七年戦争は世界規模の戦争であったために、参戦国はいずれも膨大な財政支出を強いられ、戦後、戦勝国、敗戦国の区別なく、財政難に陥った。フランス王権は財政改革を試みて、三部会の招集に踏み切ったものの、それが革命の引き金となってしまう。スペインもまた、「ブルボン改革」の一部として財政改革を試み、ラテンアメリカの植民地に財政負担を転嫁しようとするが、結局は、フランス革命による混乱もあって、それがラテンアメリカ植民地の独立につながってしまう。戦勝国イギリスは、帝国の形成に成功し、世界商業を掌握して、最初の産業革命に成功する反面、同様に、膨大な国債の元利返済に追われた。このため、タウンゼント諸法などによって、アメリカ植民地に負担転嫁をはかったが、ここでも、アメリカ13植民地の独立という結果――18世紀の英仏抗争のなかで唯一、イギリス側が敗北した戦争――を引き起こす結果になり、ひいては成立したばかりの重商主義帝国(旧帝国)を喪失することになる。(p162)


フランス史』ギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー

 七年戦争

 ルイ十五世が治世で三番目の、しかも最悪の結果に終わった戦争に巻きこまれたのも、同様に彼の意に反してのことであった。王にこの戦争を無理強いしたのは、最初はイギリスであり、次にオーストリア政府の巧みな外交である。(p315)


 しかしながら、同盟国スペインの軍事力と自国の力のすべてを結集するならば、フランスは依然として戦いを勝利に導くことが可能であった。ただ不幸なことにルイ十五世は、オーストリアによって引きずりこまれたヨーロッパ大陸での戦争に、国力の多くを浪費してしまったのである。(p316)


 こうした度重なる敗北に、フランスの世論は無関心であった。《氷に覆われたカナダのわずかばかりの土地をめぐって》、どうしてわれわれは戦わねばならないのだろう、とヴォルテールは言っている。(p317)


七年戦争  世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html

 なおイギリスはヨーロッパの戦争にはプロイセンを金銭的に支援しただけでほとんど出兵せず、専ら植民地でのフランスのと戦いである北米大陸でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと第三次カーナティック戦争に専念した。イギリスとフランス・スペイン間では同じく1763年2月10日にパリ条約を締結して講和が成立し、イギリスはフランスから広大な植民地を獲得した。


『イギリスの歴史を知るための50章』川成洋 編

 アメリカ独立戦争

 アメリカ史ではアメリカ独立戦争はしばしばアメリカ独立革命ないしアメリカ革命と呼ばれる。それはこの歴史的出来事が、イギリス本国の支配に対決してアメリカ植民地人が独立を勝ち得た戦争というだけでなく、明らかに市民革命の性格を備えていたからである。(p198)


 独立宣言後の戦況は混とんとしていた。ボストン地区を奪い返した大陸軍は余勢をかってカナダ侵攻を企て、ケベックへ突き進んだが、吹雪のなかで敗退した。他方、勢力挽回したハウ将軍率いるイギリスの大軍はワシントン軍をけ散らし、ニューヨークを占領した。ところがモントリオールから南進していたバーゴイン率いるイギリス軍は、サラトガゲイツ率いるアメリカ軍に敗れ降伏するに至った。フランスは米仏同盟を結びアメリカ軍を積極的に支援しており、スペイン、オランダもアメリカ支援に動いていた。形勢の悪化にあわてたノース政府は、大陸会議との和解工作に乗り出し、78年には植民地政策を1763年以前の状態に戻す和平提案を行った。だが時すでに遅く、独立に舵を切っていたアメリカ側はこれを拒否した。…
 イギリスとの和平交渉の結果、1783年9月3日にパリ条約が締結され、アメリカ独立が承認された。(p202)


『興亡の世界史16 大英帝国という経験』井野瀬久美惠

 アメリカ喪失は一八世紀イギリス史の例外か?

 アメリカ独立宣言、すなわち植民地アメリカの帝国からの離脱は、ヨーロッパ大陸との関係を基軸としつつ、海の彼方に未来を求めた連合王国の歴史にとって、「例外」と見られることも少なくない。事実、多くの歴史家が、アメリカ独立を、イギリス史に限定的な意味しか持たないエピソード、ないしはごく一時的な後退、と位置づけている。(p35)


 フランス参戦の衝撃

 武力闘争という独立革命の最終局面で植民地アメリカに勝利をもたらしたのは、アメリカ人の不屈の精神ではなく、ヨーロッパ諸国の軍事介入だった。とりわけ、一七七八年二月のフランスの参戦が画期となった。なぜならそれは、プロテスタントの信仰と価値観という第一次帝国の絆を断ち切る出来事だったからである。(p54)


 しかしながら、アメリカ喪失は、帝国喪失を意味しなかった。それどころか、イギリスは、アメリカ独立にともなう「一瞬の後退」の後、再び、海の彼方への拡大を開始する。それに何より、アメリカを失ったことで、イギリス国内のありようは何も変わらなかった。(p55)


『革命について』ハンナ・アレント ちくま学芸文庫

 アメリカ革命が近代の革命の過程に与えた影響、あるいはむしろ影響の無さについて議論する機会はこれから先まだたくさんあると思う。この革命の精神も、アメリカ建国の父たちの思想豊かで博識な政治理論も、ヨーロッパ大陸にたいして注目すべき多くの影響力を与えなかったということは疑問の余地がない事実である。(p31)


『イギリス帝国の歴史』秋田茂

 ハイチ革命の勃発

 この両者の差をさらに広げ、政治的自立の方向性の違いを決定づけたのが、一七九一年八月に勃発した仏領西インド諸島の中心、サン=ドマング島での黒人奴隷の蜂起、一八〇四年一月のハイチ黒人共和国の成立である(ハイチ革命)。
 黒人奴隷の蜂起、ヨーロッパにおけるフランス革命戦争の勃発は、イギリスとスペインの軍事干渉を招いた。一七九三年五月、イギリス軍はマルティニーク島に侵攻、同年九月にはサン=ドマング島の南西部を占領した。このイギリスの軍事行動には、敵国フランスの植民地の経済的中心であり、砂糖生産で優位を誇った拠点を奪取するとともに、黒人奴隷の蜂起の余波が英領西インド諸島、とくに近接するジャマイカに波及するのを防ぐ、という二重の目的があった。
 「植民地喪失の危機」のなかで、一七九四年二月四日、フランス国民公会は黒人奴隷制の廃止を決議した。解放奴隷出身のトゥサン・ルヴェルチュールは、奴隷解放闘争の先頭に立ち、イギリス軍との戦闘で功績をあげ、一七九九年にはナポレオンにより現地総督に任命された(図10)。
 その後、ナポレオンとトゥサン・ルヴェルチュールは対立し、一八〇二年五月、ナポレオンは黒人奴隷制および奴隷貿易を復活させた。このナポレオンの反動政策に対抗して、サン=ドマング島では武装闘争が展開された。黒人革命軍は優位にゲリラ戦を進め、最終的にハイチ共和国が独立した。新大陸では、アメリカ合衆国に次ぐ二番目の共和国が誕生した。(p64)


『世界各国史25 ラテン・アメリカ史Ⅰ』増田義郎 山田睦男 編

 ラテン・アメリカの独立運動は、フランス革命とナポレオンのイベリア半島征服という、ヨーロッパの二つの事件に触発されて起こった。フランス革命の直接の影響のもとに発生したのが、カリブ海大アンティル諸島のハイティ共和国の独立であり、ドミニカ共和国の独立もそれと密接に絡み合っていた。ナポレオンのポルトガル、スペイン侵入が契機となって独立運動が起こったのは、ブラジルおよびスペイン領の各地であり、キューバ島プエルト・リコ島を除けば、一八二八年までに、ほとんどすべての地域で共和国が成立した。ブラジルだけは最初帝国として独立し、のち共和制に移行した。そのほか、ジャマイカとトリニダッドはイギリス領のままであり、小アンティル諸島の島々は、イギリス、フランスで分け合っていた。また、南アメリカ北部のギアナ地方は、オランダ、イギリス、フランスの植民地だった。オランダはそのほかにも、現ベネスエラ沖にクラサオはじめいくつかの島を植民地としてもっていた。(p156)


『カリブからの問い』浜忠雄

 ハイチが独立するに至る過程はのちに詳述することになるが、ここでは、手はじめに、マルセル・デュレ在日ハイチ共和国特命全権大使(当時)が二〇〇二年三月末に、名古屋を拠点に活動するNGO「ハイチの会」の会合で行った挨拶の一節を紹介するだけにしておこう。

 皆様。一九八年前、ハイチの祖先は、ナポレオン率いる強大な軍を打ち破りました。この輝かしい勝利はハイチの歴史と人々の心に忘れることのない足跡を残し、世界で初めての黒人共和国の誕生を導きました。……これは、ハイチが全世界の歴史と文明に貢献した重要な出来事です(牛越涼子訳による)。(p06)


 近代史上唯一成功した奴隷革命

 ここで、南北アメリカ主要諸国の独立年と奴隷解放年を示した表1を見よう。
 南北アメリカで最初に独立したのは、言うまでもなくアメリカ合衆国。そのアメリカ合衆国が黒人奴隷制を廃止したのは、これもよく知られるように南北戦争後の一八六三年(「合衆国憲法」修正第一三条による確定は一八六五年)、つまり独立宣言から起算して実に九〇年後のことである。奴隷制の廃止が独立の後になるという点ではメキシコも、そしてヴェネズエラやパラグアイなど南アメリカの多くの国も同じであるが、奴隷解放年はアメリカ合衆国よりも早い国が多い。カリブ海キューバやジャマイカの場合は逆で、奴隷解放が先で独立は二〇世紀に入ってからになる。とくに元イギリス領のジャマイカの独立は今からわずか四〇年前のことにすぎない。これらと比べて特異なのが、やはりハイチである。奴隷解放は一七九三年ともっとも早く、そしてその約一〇年後の一八〇四年には早くも独立を達成する。(p15)


『図説フランス革命史』竹中幸史

 奴隷解放宣言とハイチ革命

 近代史上初、植民地の黒人奴隷制廃止宣言

 しかし革命フランスはそれに先だつこと69年、1794年2月4日に、植民地の黒人奴隷制廃止宣言を行っている。もちろん近代史上初のことである。しかしこれは単に人権宣言の理念が黒人たちにあてはめられたのではない。というのも奴隷解放という理想と大西洋貿易の利潤激減が天秤にかけられた結果、彼らへの人権宣言適用は先送りされていたからである。(p118)


 ところが91年10月に、サン=ドマング(現ハイチ)で奴隷が蜂起して政情が混乱し、さらに93年8月、イギリスやスペインによる植民地占領の危機が迫った。そこで当地に派遣された委員は奴隷たちをフランス軍編入する必要に迫られ、すべての黒人、ムラート(混血の人びと)にフランス市民権を与えることを宣したのである。94年2月の国民公会の宣言は、これを正式に承認したものだった。文字どおり、鞭をとりあげて飴を渡したわけだ。(p118)


フランス革命はなぜおこったか』柴田三千雄

 「大西洋革命」テーゼ

 このように一八世紀中葉以後、フランスを取り巻く国際関係がきびしい情勢となったのは、その地域世界が再構造化(構造化のやり直し)の時期にはいったからである。
 その変化の要因としては、「大西洋経済」の発展が大きい。一六世紀以来、ヨーロッパの遠隔地商業の主舞台が、地中海とバルト海から大西洋に移り、大西洋沿岸諸国に初期資本主義が発達する。大西洋を場として(アジア貿易も大西洋を経由する)、「大西洋経済」が成立し、沿岸諸国は、海外植民地の獲得・経営にますます力を入れ、その争奪戦が激化した。これが、やがて産業革命を刺激する。
 この動きをグローバルに政治史的にとらえたのが、「大西洋革命」テーゼである。このテーゼとは、一九五〇年代の後半に、アメリカの歴史家ロバート・パーマーとフランスの歴史家ジャック・ゴドゥショの二人が、共同で提言したもので、一八世紀後半のアメリカ独立から一九世紀前半のラテンアメリカ諸国の独立まで、大西洋の両岸地域でおこった一連の政治変革を、「大西洋革命」というべき一つの巨大な歴史的動きとしてとらえる、というものである。もちろん、フランス革命もその一環としてはいる。(p25)


ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%83%88_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%A0%E4%BC%AF%E7%88%B5)

 アメリカ独立戦争をめぐっては自らが作り上げた植民地帝国の崩壊を恐れ、アメリカ独立に反対した(ロッキンガム侯爵派は賛成であったため、両派の距離は更に広がった)。そのため戦争を遂行するノース卿内閣は1778年3月にピットに政権への協力要請を行ったが、ピットの条件が厳しかったため、この交渉は決裂した。


 その直後の1778年4月、貴族院議場で植民地維持を訴える演説をしていた際に倒れ、一か月後の5月11日にケント州・ヘイスで死去した。


『イギリス帝国の歴史』秋田茂

 フランスとの戦争は断続的に続いたが、一七世紀から一貫してイギリスは、強大な海軍力(王立海軍)を背景に制海権を確保し、それを通じて海外植民地を維持・拡大することを基本戦略としていた。ヨーロッパ大陸での戦闘は同盟諸国(プロイセンやロシアなどの陸軍国)に任せて、自国はブリテン島と海外植民地を結びつける航路(シーレーン)の安全保障のために軍事力を投入し、とりわけ東インド地域との海上連絡路を重視した。(p91)


『世界歴史体系 イギリス史2 近世』今井宏

 七年戦争でイギリスの覇権が確立したインドでは、イギリス東インド会社がその関与する地域をひろげ、さらに一七六五年にはベンガルにおける徴税権を獲得していた。東インド会社はたんに貿易をおこなう商社から統治機関に変質しつつあったのである。(p334)


『イギリスの歴史を知るための50章』川成洋 編

 国王は1783年12月、24歳のピット(小)を首相に指名し、議会から強権化を批判されたが、翌年解散後の総選挙でピット派トーリーが大勝して政権は安定した。ピットはインド植民地政策で成果を上げたが、やがてフランスで革命が激発、93年には革命政権がイギリスに宣戦したため、多難な戦時体制に突入した。一方、国内には革命を支持するペインや急進派の活動もあり、またアイルランドでは、フランス革命軍の支援を得て独立革命を目指す企ても起こった。(p216)


『イギリス帝国の歴史』秋田茂

 茶の貿易と中国――アジアの三角貿易の形成

 一七八四年にイギリス首相ピットは、密輸の防止と関税収入の増収のために、本国の茶関税の大幅な引き下げを含め関税改革を実施した。この結果、広東からの中国茶の輸入は激増し、対中貿易は赤字に転落した。その赤字を相殺し本国からの銀の流出を阻止するために、東インド会社ベンガル地方でのアヘン専売・独占権を活用して、カントリー・トレーダーを介在させたインド産アヘンの対中国向け密輸を始めた。イギリス―インド―中国を結ぶアジアの三角貿易の形成である。(p73)


アヘンの呪い招き寄せた米国  竜口英幸
https://shukousha.com/column/tatsuguchi/7083/

 清国にアヘンを国策として売りつけた歴史的汚名は、イギリスが一身に背負わされている。しかし、あまり知られてはいないが、アメリカ商人も競って清国にアヘンを売りつけていたのである。