革命的農民

『国家制度とアナーキー』ミハイル・バクーニン

 最後に、ドイツには今でこそ存在していないが、もう一つの分子があった。それは革命的農民、あるいは少なくとも革命的になる資質をそなえた農民である。当時過半のドイツには、今日なおメクレンブルク両公国に存在するように、古い農奴遺制がまだ存在していた。オーストリアでは、農奴制が完全に支配していた。ドイツ農民が蜂起を起こす力量と決意のあることは、疑いなかった。一八三〇年のバイエルン領プファルツと同じように、一八四八年にはほとんどドイツ全土で、フランスの共和国宣言がようやく知られるようになって、農民はこぞって動きはじめ、まず多数の革命議会議員に対するはじめての選挙に、もっとも熱心に、活発に、積極的に加わったのであった。当時まだドイツ農民は、議会は彼らのためになにかができ、なにかをしたいとのぞんでいるものと信じ、もっとも極端でもっとも左翼的な人間をその代表として送りこんだ――もちろんドイツの政治的人間が、極端かつ左翼的になりうる限りでの話である。やがて、彼らにとって利益になるようなことは議会からなに一つ期待できないとわかり、農民の関心はうすらいだ。ただ最初のうち、彼らはすべてを、総決起さえも覚悟していたのであった。
 一八三〇年と同様一八四八年にも、ドイツの自由主義者と急進派は、なによりもそうした一揆を恐れていた。マルクス派の社会主義者たちでさえ、それがお好きではない。周知のように、フェルディナント・ラサールは、自ら認めるところによると、このドイツ共産党最高指導者の直弟子であったが、ラサールの死にあたって、先生は実践の面で自分をはるかにしのいだこの輝かしい弟子に向けて、嫉妬と不満にあふれた羨望の念をえんりょなくぶちまけたのであった。もう一度言うと、周知のようにそのラサールが、十六世紀に農民蜂起が敗北し、続いてドイツ官僚制国家が強化され、繁栄したことが、革命に真の勝利をもたらしたのだという思想を、何回もくりかえし述べているのである。
 ドイツの共産主義者あるいは社会民主主義者にとって、農民、すべての農民が反動である。それにひきかえ国家、すべての国家、つまりビスマルクの国家ですら、彼らにとっては革命なのだ。彼らを非難しているのだ、と思わないでいただきたい。彼らが現にこう考えている証拠として、彼らの演説、パンフレット、雑誌論文、そして最後に手紙類を挙げよう――これらはみな時がくれば、ロシアの公衆に紹介されることになろう。もっとも、マルクス主義者たちには他の考え方ができないのだ。どう転んでも国家主義者の彼らは、あらゆる人民革命、とくに性格からし無政府主義的で直接国家の廃絶におもむく農民革命を呪わざるをえない。すべてを併呑する汎ゲルマン主義者として、彼らは農民革命がとくにスラヴ的であるというすでにその一事だけで、農民革命を排撃しなければならないのである。
 そしてこのように農民一揆を憎悪する点では、彼らはしごくなごやかに、しごく感動して、ドイツのブルジョア社会の諸層ならびに諸党と意見が一致するのだ。すでに見たように、一八三〇年にバイエルン領プファルツの農民が、鎌と熊手を手に領主の居城を襲っただけで、当時南ドイツ学生組合員をとらえていた革命の熱気は急におとろえてしまったのである。一八四八年にはこれと同じことがくりかえされたわけだが、そもそも一八四八年革命当初における農民蜂起の挙に対して、ドイツ急進主義者たちの断固反対したことが、おそらくこの革命のみじめな結果をまねく大きな原因となったのだ。(p211)