ポーランド分割

『岩波講座 世界歴史17 環大西洋革命』

 小山哲

 当時、ポーランドの分割を肯定的な目で見ていたのはヴォルテールだけではなかった。強国が勢力均衡の維持のために弱小国の領土を犠牲にすることは一八世紀のヨーロッパではそれほど異常なこととはみなされなかったし、モンテスキューが「あらゆる貴族政のうち最も不完全なもの」(『法の精神』第一部第二編第三章)と呼んだポーランド国家は、もはや列強の介入なしに自力で秩序を維持するだけの能力を持たないと思われていた。ポーランドの共和制的政体の可能性を擁護したルソーのような立場はむしろ少数派であり、その彼でさえ『ポーランド統治論』(一七七〇年執筆)のなかで「かくも奇妙に組織された国家がどうしてかくも長く存続しえたのか、理解に苦しむ」(永見文雄訳)と述べていた。(p76)


 それから二〇年ほど後、第二次分割の前年にイギリスの新聞『パブリック・アドヴァータイザー』は、ロシア軍と闘うポーランド人に「暴君はみな、じきに君らを怖れるだろう/自由な者はみな、君らを敬うだろう」と声援を送った(一七九二年八月一七日付)。この頃から、ヨーロッパの世論のなかで、ポーランドの滅亡を必然的な運命として正当化する議論と並んで、分割をポーランドの「自殺」ではなく列強による「他殺」として非難する論調が目につき始める。(p77)


 ポーランドの再建は「ヨーロッパと世界の健康のために不可欠」と述べたのはセント・ヘレナに流刑中のナポレオンであった。ヴォルテールの時代から四〇年余りの間に、ヨーロッパのポーランドへのまなざしはかなり変化したのである。(p77)


 歴史上「ポーランド分割」と呼ばれるこの事件は、しかしながら、単なる外圧による一近世国家の消滅という出来事には還元できない問題をはらんでいる。まず第一に、「ポーランド分割」は出来事というより半世紀近くにおよぶプロセスであり、その過程ではポーランド側の主体的な行動が事態の行方を大きく左右した。三回の分割は、それぞれ孤立した事件ではない。(p77)


 これらの一連の出来事は、一七三〇年代から再び拡張局面に入った近代世界システムの東方における外縁の拡大と、それに対するポーランドおよび周辺諸国の対応のなかで連鎖的に生じたものであった。その過程で東中欧の国家関係は根本的に再編成され、この地域の社会的・文化的状況と住民の意識は大きく変化した。さきに触れたポーランドへのまなざしの変化も、こうした大きな構図の転換と無関係ではない。(p77)