マルクス自身における共同体認識の欠如

『世界資本主義Ⅰ』岩田弘

 マルクス自身における共同体認識の欠如

 これは、しかし、たんにロシア・マルクス主義近代主義的な浅薄性という問題ではなく、マルクス自身にも大いに責任のある問題であった。ナロードニキの女性革命家、ヴェラ・ザスーリッチは、ミールを基盤とするコミュニズムの可能性についてマルクスに質問したが、それに対する彼の回答は、全面否定ではなく、特殊ロシア的な例外という限定付きでの肯定であった。西ヨーロッパでは、そうした農民共同体は、古典古代以来すでに消滅しているというのがその理由である。
 しかし、青年マルクスがライン新聞の主筆時代に遭遇した問題は、まさにこの問題――農民による森林盗伐問題――であった。ライン地方の森林には、二つの前近代的な権利、すなわち、中世の名残である地主貴族の領有権と農民共同体の保有権とが重なっていたが、前者の近代的な私有権への転化にともない、後者による森林の手入れ・伐採は私有財産に対する窃盗行為となり、告発されたという問題である。彼は、農民の行為を農民の自然的権利・慣習権として擁護する論陣を張ったのであるが、それは、自然的権利と私有権との衝突ではなく、中世以来の農民の共同体的権利と確立しつつある資本主義的私有権との衝突であった。
 またマルクスは、『資本論』第1部の原始的蓄積論において、イギリスのエンクロージャー運動を取り上げ、土地からの農民の暴力的追放とそれによる土地の私有地としての囲い込みこそが、次の産業革命のための無産プロレタリアートの創出を準備したとして、議会資料を利用しながらそれを詳細に論じているのであるが、しかし彼は、この暴力が、農民の共同体的保有権に対する近代的私有権の法的暴力であることを、『資本論』の段階になっても依然として明確にしていなかったのである。
 そしてこれは、彼が、古典古代に遥かに先行する古代オリエントや古代中国において、定住型農業社会の登場が人類史において演ずる巨大な役割、すなわち、多数の農業共同体の共同行為による広大な地球表面の農地への改造事業、灌漑治水事業や、そのためのこれらの農業共同体の国家的統合の人類史的意義を、明確にしていなかったことと同じ理由によるものであった。(p56)

 

 市民社会の虚構性と唯物史観的階級論の陥穽

 さて、再び『マニフェスト』に戻れば、その根本問題は共同体に対する無関心性にあったわけであるが、これは、ブルジョア自由主義における市民社会認識の虚構性についての批判の欠如となる。以下、これに関わる問題点を列挙してみよう。

 ①自由主義ブルジョアジーは、自由な私的個人の契約関係から社会や国家の成立を演繹する。
 ②スミスの分業論や、これにもとづく労働価値説は、こうした市民社会的理念の経済学版にほかならない。
 ③共同体論なき階級論や唯物史観は、市民社会のこうした虚構性を脱しえず、市民社会的な階級論やその歴史的推移論に傾斜する。無産者と有産者の市民社会的な対立。富を生産する無産者とそれを搾取し収奪する有産者などなどの単純シナリオがそれである。
 ④『マニフェスト』の歴史認識・階級認識は、古代における奴隷制、奴隷所有者と奴隷の対立関係、次いで中世における封建制農奴と領主の対立関係、最後に近代社会における無産賃金労働者と有産ブルジョアとの対立関係となっており、こうした階級関係の歴史的推移を説明するものとして生産力と生産関係の弁証法、すなわち唯物史観が持ち出されている。
 ⑤こうした唯物史観的階級論の虚構性を端的に示すものは、共同体認識の欠如である。少なくとも近代資本主義社会の登場までは、人類社会の基本は農業社会であり、また農業社会は農業共同体なしには存立しえないはずであるが、それについての認識が欠落している。

 以上のようなマルクス唯物史観歴史認識は、彼にとってコミュニズムとは何かという根本疑問を起こさせる。あるいは、彼のコミュニズム共同体主義共産主義か、という本質問題である。
 『マニフェスト』の第2章によれば、それは、ブルジョア私有財産の没収という意味での通俗的共産主義へと傾斜している。だが、フランス大革命においてブルジョア国民議会との闘争に決起したサンキュロット・コミューン(都市コミューンおよび農村コミューン)の勤労人民大衆にとっては、コミュニズムとは、彼ら自身のコミューンの防衛(都市および農村の共同体の防衛)という意味でのコミューン主義であり、共同体主義であった。
 だが、マルクスは、こうした根本問題、本質問題について無頓着・無関心であった。(p167)