対華21カ条要求

対華21カ条要求  ウィキペディア
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第一次世界大戦がヨーロッパで始まり、日本は第三回日英同盟協約により、1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦布告し、連合国の一員として参戦した。参戦に際し日本政府はドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を8月15日に発し、その中で膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求した。


日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、ドイツは不承認でありアメリカの態度は明確でなかった。3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた。駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁世凱大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。


日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。在中ドイツ系機関紙である北京ガゼットや独華日報は山東問題に関する袁世凱との直接交渉を攻撃しはじめ、20余紙はドイツの新任公使ヒンツェに買収されたなどと言われた。排日派や宣教師らは日本軍の暴行を喧伝し日本軍の撤兵を要求したとされる。


3月3日、日置公使は第6回会議で、「元来、革命の乱が勃発した当時、シナの大半は粉々としてあたかも鼎の沸くような情勢であったにもかかわらず、南満州と東部蒙古が乱離の禍から免れえたのは、まったく日本が何らの野心をも抱かないで、終始公明正大な態度を持し、努めてこの両地方の秩序維持に留意したことと、日本がこの方面において特殊の地位を保有していた結果にほかならない。もし万一、日本がこの機会に乗じてある種の行動をとった場合には、南満州も東蒙もあるいは今日の外蒙古と同様の運命に遭遇したかもわからない。ついては日本国のこの公明正大な心事とその優越する特殊地位に顧みて、中国政府は速やかに満蒙におけるわが優越なる地位を確認し、第2号から東蒙を除外する考えを翻してほしい」と述べた。全権の陸徴祥外交総長は「革命の乱当時における事情、ならびに日本国の態度は、まことに貴説の通りである。これらの事情からして中国は、今回南満洲に関し条約締結の商議に応ずる次第である」と答えた。


5号条項は秘密・希望条項とされていたがただちにリークされ、報道は中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。日本は5号条項を後に撤回した。


5月7日、イギリスのグレイ外相は駐英井上勝之助大使に対し、「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と述べ、また5月10日、「5月7日朝ジョルダン公使に電報して、日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、非公式に強い勧告を与えるよう訓令した」と述べた。一方、ロシアのマレヴィッチ大使は5月6日、「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱最後通牒を待っているものと思われる」と加藤高明外相に述べた。さらに、日本の対華21カ条要求に対し特に異議のなかったフランスに、石井菊次郎大使が最後通牒の説明を行った際、デルカッセ仏外相は「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と述べた。


締結直後の6月22日に中華民国は懲弁国賊条例を公布した。これは日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処すもので、土地商租権は調印と同時に早くも空文と化し、中国は条約に違反した。中国の門戸開放(Open door)を唱えるアメリカは、日本の対中政策との妥協点を求め、1917年に石井・ランシング協定を結んだ。1919年、大戦後のパリ講和会議でも日本の要求が認められたが、中国国内では学生デモを発端に各地でストライキが起こり、軍閥政権は屈服しヴェルサイユ条約の調印を拒絶した(五四運動)。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で山東懸案解決に関する条約が締結され、日本は守備兵を撤兵し、膠州湾租借地、膠済鉄道などを返還したが、膠済鉄道は日本の借款鉄道となり、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、山東省において名義のうえで一定の権益を確保した(中国官憲による権益侵害や民衆を動員した抗日運動により実施されなかった)。


孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言した。また、加藤高明外相は、最後通牒は、譲歩する際に中国国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである、と公然と認めた。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュ(Paul S. Reinsch)の国務省への報告書には、「中国側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とある。