トラウトマンの和平工作

『一気に読める「戦争」の昭和史』小川榮太郎

 昭和十二年十一月~ 【トラウトマン和平工作

 これは極秘だが、もし自分が日本側の条件を受諾したら、我が政府は世論の大波に押し流されてしまうだろう。革命が発生する――

         蔣介石(中国国民党統裁)(p60)


 実際、日本側は十月には国民党との和平交渉を模索し始め、ドイツの駐中国大使オスカー・トラウトマンに仲介を依頼します。ドイツはソ連牽制のため日本を必要とし、戦略物資輸入の上で中国を必要としており、日中和平を強く望む立場にあったからです。トラウトマンは十一月五日、蔣介石と会談します。
 日本側の要求は、当初穏健なものでした。

① 内蒙古自治
② 満洲国の国境から北京、天津に至る北支の非武装地帯設定
③ 上海の国際警察隊による管理
④ 抗日政策の廃止
⑤ 中ソ不可侵条約と矛盾しないかたちでの共同防共
⑥ 日本商品に対する関税率の低減
⑦ 中国における外国人の権利の尊重

 満洲国承認の文言はあえて入れず、言外に意を含ませるにとどめました。基本的な日本の主張は、支那事変前の状態、つまり国民政府が満洲国を承認する代わり、日本は中国の独立を脅かさないというにすぎません。
 一方、蔣介石は頑強に交渉を拒みます。
 トラウトマンによれば、蔣介石は「日本側の条件を受諾すれば、抗日世論によって政府が倒れ、共産政権が誕生する。共産政権が誕生すれば、日本は和平の機会を永久に失うだろう」と述べたと言います。
 要するにこういうことでしょう。蔣介石は「中国共産党の脅威」と「民衆の抗日ナショナリズム」を背にしながら、 "政権維持" に腐心しなければなりませんでした。その意味で、いったん抗日に火をつけてしまった以上、日本と安易に妥協したとみられることは、政権崩壊を意味します。たとえ負け戦を続けてでさえ、「抗日のポーズ」を示し続けないと政権が持たない。――今に至る「中国政府の対日政策」の原型が、すでにここに見られるわけです。
 こうして、日本側からの最初の和平提案は、蔣介石の難色で立ち消えました。
 同年十二月二日に蔣介石とトラウトマンの二度目の会談が行われます。いくら「戦略的退却」と言っても、中国側としては、あまりにもひどい負けっぷりが続いています。北京に続き、歴史ある首都南京を奪われることのダメージはやはり大きいものでした。南京陥落を前に、蔣介石は時間稼ぎに和平交渉を利用しようとし始めるのです。
 こうして、蔣介石が和平に前向きの意向を、仲介者のトラウトマンに極秘で表明した直後、南京が陥落しました。(p61)