第二次大戦直前のポーランド外交

『物語 ポーランドの歴史』渡辺克義

 ポーランド外交の基本はフランスとの同盟関係の優先であったが、ドイツ・ソ連両大国との間に等距離を保つという姿勢に転じた。一九三二年、ソ連と不可侵条約を、三四年、ドイツ(三三年、ヒトラーが首相に就任)と不可侵条約を締結した。親仏外交を採るアウグスト・ザレスキ外相に代わり、三二年、ユゼフ・ベックが外相のポストに就いた。三五年にピウスツキが没すると、ベックは親独的な外交を展開するようになる。しかしドイツの再軍備以降、ベック外交は綻びを呈する。ドイツのオーストリア併合に与したり、ミュンヘン協定に乗じてチェコからチェシン地方を奪うなどした。さらに、ベルリン・ローマ枢軸に続く東欧諸国連合を構想した。ベック外交は、独ソ両国の間に位置するポーランド地政学的位置を誇大に捉えた産物であった。
 一九三八年十月二十四日、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは駐独ポーランド大使ユゼフ・リプスキに対し、一連の要求を提示した。グダンスク(ダンツィヒ)のドイツへの併合を認めること、ポモジェを経由して東プロイセンとつながる高速道路ならびに鉄道の敷設を認めること、ポーランドの防共協定(コミンテルン共産主義政党による国際組織〉の打倒を目指して一九三六年に日独間で締結)への参加を求める、というものであった。ポーランドはこれらの要求を完全に斥けた。リッベントロップは翌三九年一月二十五―二十七日にワルシャワを訪れ、要求を繰り返すが、ポーランドの回答は変わらなかった。ドイツ・ソ連両国との間に等距離を保つという外交方針からも、ドイツに譲歩することはできなかったのである。リッベントロップのこの一月の訪問について、ベックはのちにこう回顧している。

 リッベントロップはいっそう執拗にダンツィヒと通行問題に話を戻した。一方彼は(…)反ソで協調することを最後的に試みた。(…)「あなたは海の問題で頑なだ。黒海だって海ですよ」とまで言った。(…)ブランカ宮殿での混迷を極めた最後の会談で私はリッベントロップにはっきりとこう言った。「ダンツィヒと高速道路に関して我々から聞いたことを総統に報告するにあたり、間違ってもどうか楽観的になっていただきたくない。間違いのもとです。我々の論拠や見解を無視してこれらの問題解決のためのテーブルに着こうとするならば、事態は重大な紛糾を免れないでしょう。いま一度、楽観的見方に警告を与えておきます」。

 しかし、三月二十一日、リッベントロップは再度リプスキに要求を突きつけた。ポーランドは今度も要求を斥けた。同時にイギリスとの交渉を進め、結果的にイギリス首相ネヴィル・チェンバレンから次の言葉を引き出した。「ポーランド政府が自国の軍事力で抵抗する必要を認める。明らかに独立を脅かす行動に対しては、イギリス政府は可能となるあらゆる手段を通じてポーランドを支援することが義務である」(三月三十一日の下院議会)。四月十三日、フランスもイギリス政府と同様の保障をポーランドに対して行った。
 四月二十八日、ヒトラーは一九三四年に締結されたドイツ・ポーランド不可侵条約の破棄を宣言した。ドイツ・ポーランド関係は日増しに悪化していった。しかし、ベックはなお戦争の危機を現実的に捉えていなかった。(p83)