石原莞爾の不拡大方針

『昭和精神史』桶谷秀昭

 事変突発当初、陸軍省参謀本部は、だいたいにおいて戦争に消極的であつた。…
 たとへば参謀本部第一部長石原莞爾は、思想的にはもつとも徹底した不拡大方針を抱いてゐて、満州国が民族協和の独立国家を実現するために、北支からの全面撤兵を考へてゐた。
 「石原莞爾中将回想応答録」(昭和十四年秋におこなはれた竹田宮殿下との対談)で、石原は当時の考へ方を語つてゐる。

 動員は不拡大方針を放棄せしむる威力大でありますから不拡大方針を有する以上動員を成る可く避けたいのは当然でありますが、政策的見地から作戦を甚しく不利ならしむることは絶対にいけませぬから形勢切迫せば適時動員をしなければなりませぬ。然し動員即ち不拡大主義の放棄ではありません。動員後も依然外交交渉が進められますが愈々開戦となれば不拡大主義は翻然一抛作戦至上になつたのであります。

 石原莞爾は論理の透徹した思考の持主であり、またその思想が転向する場合には、いついかなる契機で転向が生まれたかに関して鋭敏な自意識のはたらく資質であつたから、右のやうないひかたで詭弁を弄してゐるわけではない。政策上の不拡大が軍事作戦上の不利を招くときは、軍人として作戦至上を採らざるをえないといふ決断を語つてゐる。切迫した形勢下で、不拡大の方針のために、五千の駐屯軍と居留地の邦人を見殺しにできないといふのである。
 この、あれかこれかの選択は、参謀本部内の支那班の楽観論に立つ強硬派の主張と結果において違ひはないやうにみえる。強硬派は今度の事変も、満州事変のときのやうに簡単に片づくと楽観してゐた。さういふ強硬派は関東軍の幕僚にもすくなからずゐた。これを契機に北支を日本の勢力下に掌握するといふ謀略的発想を抱いてゐた。
 石原莞爾の思想は、軍事作戦の決定に蔽はれてみえなくなつてゐるが、宋哲元軍を叩き蔣介石の国民党中央軍と事を構へれば、長期戦に曳きずりこまれる悲観的な予想を抱いてゐた。
 この予想が何に由来するかは、彼の満州国創設の過程で体験的に知つた中国人の政治能力への認識であらう。彼は満州事変の謀略に加担した主要人物だが、その後満蒙の統治が現実の問題となつてから、満蒙占領論から満蒙の独立論、つまり民族協和による王道楽土の建設の理想に転向した。

 その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐疑が、再び中国人にも政治の能力ありとする見方への変り方であつた。当時中国は蔣介石を中心とする国内の統一運動が、国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行つた。生活の根本的な改善からはじまつて国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違つて新しい息吹きを中国に与へる様に思はれたのである。
 中国人自身に依る中国の革新政治は可能であると言ふ従来の懐疑からの再出発の気持は更に満州事変の最中に於ける満州人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と、軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層違つて来たのである。(『満州建国前夜の心境』)

 石原莞爾の中には機敏な謀略家と理想家とが共棲してゐたやうに思はれる。機敏な謀略家は満州事変を惹起し、二・二六事件の蹶起軍をてきぱきと鎮圧し、あるいは宇垣一成の組閣を潰したりしたが、参謀本部第一部長(作戦部長)として、彼は憂ひ顔のもつとも純粋な不拡大論者であり、そのために作戦論とのヂレンマに追ひつめられた。
 大谷敬二郎『昭和憲兵史』によると、石原は懊悩煩悶のすゑ、杉山陸相、梅津次官ら陸軍省首脳にむかつて、
 「この際北支軍全部を一挙に満支国境にまで引き上げよ、そして近衛は南京に飛んで直接蔣介石と膝詰談判して解決せよ」
 と迫つた。これは現地居留民の保護を放棄することを意味する。
 石原の中の理想家はそこまで思ひつめたわけだが、杉山陸相も梅津次官もこれに反対した。彼らも不拡大に反対でなかつたが、この機会に中国軍を膺懲することで事件の急速な解決ができると考へてゐた。この考へ方が七月十一日の政府声明となつた。
 政府声明は、七月七日夜半の不法射撃を第二十九軍の「計画的武力抗日」と断定し、

 惟ふに北支治安の維持が帝国及び満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして支部側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及び今後斯かる行為なからしむる為めの適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊要なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり、……

 といふ強硬な態度を表明した。
 ところがこの十一日午後八時、現地では日本軍と宋哲元軍とのあひだに、(一)謝罪(二)将来に関する所要の保障(三)直接責任者の処罰の三項目から成る協定が成立してゐた。
 十二日に支那駐屯軍司令官として現地に着任した香月清司中将は、二日後、陸軍省参謀本部連名の「事変処理ニ関スル方針」を受けとつた。その内容は、
 「十一日の彼我の協定を全面的に承認し、軍はその実行を監督する、もし実行する誠意がないならばこれに膺懲的打撃を与へる、しかし兵力を支那駐屯軍が使用せんとする時はあらかじめ中央部の承認を受けよ」
 といふもので、香月中将は困惑し、不快になつた。なぜなら彼は軍司令官になつたとき、参謀本部から、
 「逐次増加サルベキ兵力ヲ併セ指揮シ支那駐屯軍司令官ノ任務ヲ達成スベシ」
 といふ作戦命令を受けとつてゐたからで、この作戦命令には当然、軍司令官としての兵力使用の権限は委任されてゐるのに、それをいちいち中央部の承認を受けよといふのは、司令官を「デクノ棒」扱ひするものだからである。香月はもともと拡大論にくみしてゐたからその不快は甚しかつた。
 現実問題として、協定は成つたとはいへ、蘆溝橋附近では依然として彼我両軍は相対峙してをり、一触即発の危機を孕んでゐるのであるから、再び不意の衝突が起つたとき、いちいち参謀本部陸軍省に兵力使用の許可を仰ぐのでは、とても任務の遂行はおぼつかない。
 しかもすでに関東軍と朝鮮駐屯軍から兵力を派遣する決定をしてゐるのだから、それはせつかく成立した協定の実行を相手に迫つても、逆に相手を刺激してぶちこはすことにもなりかねない。
 香月の不快は憤懣にまでつのつたが、おなじ頃、宇佐美侍従武官が一将校に托して、天皇の気持を伝へる手紙をよこした。
 「お上のお思召も事変の拡大と云ふことを非常に御軫念遊ばされて居られますから此の辺のことは十分心得て居ると思ひますがお思召の点をお伝へします」
 この手紙は香月を大きく動かし、彼は以後不拡大の方針を作戦の上につらぬかうと決意した。すなはち北京南郊外の南苑の一地点に兵力を集中し、天津にも北京にも一箇中隊しか置かず、戦端が開かれた場合、居留民の保護も交通線の確保も放棄せざるをえない、といふ方針である。
 七月十八日に宋哲元が謝罪に来た。
 「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」
 といふ丁重な挨拶で、 "謝罪する" とはいつてゐないが、香月は「遺憾に思ふ」の含意に謝罪がこめられてゐると解釈した。面子を重んじる中国人がみづから出向いてきたこと自体からもさう感じたであらう。
 翌日、日本側の「将来に関する所要の保障」の具体的細目要求を全面的に容認する条件を持つてきた。かいつまんでいへば、共産党の策動の弾圧と、さまざまな形の排日運動の排除の実行である。(p296)