宋哲元の意志

『昭和精神史』桶谷秀昭

 宋哲元は軍人といふより冀察政務委員会を指導する行政家であり、また保守的な文化思想の持主で、民国二十五年に国府主席林森と北京柏林寺蔵の龍蔵一切経の印行を計画したり、広東の陳済棠が小学校に読経を正課とする提唱に賛意を表明したりしてゐる。いはゆる読経存文運動といふ文化運動で、これは抗日、尊孔、読経を唱へることで軍閥が国民党に対抗する文化イデオロギイとして利用したものだが、発展しなかつた。
 そのうちに七月二十五日に廊坊事件が起り、翌日、北京の広安門事件が起り、いずれも日中両軍の偶発的衝突の観のある両事件によつて、長期にわたる戦争に突入した。

 刻下ノ情勢ニ鑑ミ支那駐屯軍司令官ハ臨命第四〇〇号ヲ廃シ所要ニ応ジ武力行使ヲ為スコトヲ得

 参謀本部が七月二十六日に発した右の「臨命第四一八号」は、七月八日の「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」といふ不拡大方針からの決定的な転換である。
 廊坊、広安門両事件において、日中両軍のいづれの側にも計画的挑発のあつたことは認められない。
 国民党中央の意志は強硬で、蔣介石は七月十六、十八日に再度宋哲元あてに電報を打ち、日本が提案した協定に勝手に調印したことを責め、責任は自分ひとりが負ふから、あくまではつきりした態度を堅持せよと激励してゐる。しかし宋哲元からは何の返事もなかつた。
 蔣介石が廬山でおこなつた七月十七日の演説「蘆溝橋事変に対する厳正表示」は、日本にたいする最後通告の実質をもつてゐる。北京は第二の瀋陽(奉天)とならうとしてゐる、そのときは河北、チャハルはかつての東四省(満州内蒙古)と化さう。中国は「最後の関頭」に立つてゐる、ただ抗戦あるのみ。
 しかし蔣介石の徹底抗日戦の意志も、宋哲元を決定的に動かさなかつたやうにみえる。宋は協定により北京城内の第三十七師の中国軍部隊をすこしづつ撤去しはじめた。
 香月清司中将によれば、宋哲元の意志が蔣介石に一体化したのは二十二日、北京における冀察政務委員会で、南京からひそかに潜入して来た蔣介石の参謀次長熊斌に会つて威嚇説得されたからではないかといふ。(『香月清司中将回想録』昭和十五年)
 それにしても宋哲元は廊坊事件の直後、日本駐屯軍から最後通牒を突きつけられたときになつても、困惑の態で、北京の特務機関松井大佐のところへやつて来て、
 「従来は自分の方に不覚があつた――さういふ通牒を出してくれるな」
 といつた。しかしその日の晩に広安門事件が起つた。宋哲元は北京市長秦徳純と自動車で現場附近まで駈けつけてたいへん心配してゐた、と香月中将はいつてゐる。この期に及んでも宋哲元に戦争をやる肚はなかつたとみてよく、結局、彼の麾下の馮治安(河北省政府主席を兼務)の第三十七師軍に出し抜かれたといふ。
 香月中将は参謀総長陸軍大臣に兵力使用の電報指令を仰いだが、その応答は七月二十六日の石原莞爾第一部長からの
 「徹底的ニ膺懲セラルベシ、上奏等一切ノ責任ハ参謀本部ニテ負フ云々」
 の電報を受けとつただけであつた。香月は軍中央の煮え切らぬ対応にいら立ちながら、二十七日よりの一斉攻撃にふみきつた。(p300)