松井大将の陣中日記

『昭和精神史』桶谷秀昭

 ついでながら松井石根は単純な強硬派ではない。彼は孫文を尊敬するアジア主義者であり、胡漢民、李宗仁、白崇禧、唐紹儀ら広東派の国民党要人と相識のあひだがらであつた。現に李と白は国民政府国防会議の委員であるが、その来歴は反蔣介石派である。
 松井は南京城攻撃の二日前に投降勧告文を飛行機により城内外に散布し一日の期限をもつて回答を求めたが、得られなかつた。孫文の中山陵をはじめ多くの歴史的遺跡が戦火に破壊されるのを防ぐ意図がこめられてゐた。
 戦後、東京裁判で、松井は南京入城の際に日本軍による中国民衆十万人余の大虐殺の責任を問はれて絞首刑となつた。彼はその事実を最後まで否定してゐる。
 南京が占領されたのは十二月十三日、十七日に入城式が行はれ、十八日には陣没忠霊祭があり、松井は式後、各軍師団長、参謀長に、「軍紀、風紀の振粛」と「支那人軽侮思想の排除」を訴へてゐる。
 翌十九日、幕僚数名と清涼山から城内外を看望した。「概して城内は殆ど兵火を免れ、市民亦安堵の色深し」(『陣中日記』)と書いてゐる。東京裁判は十三日から十九日にかけて大虐殺が最高潮に達したといふ。しかし松井の日記は二十日の記事に、「避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも、其数十二万余に達し」とある。彼らはドイツ、アメリカ宣教師団体、紅卍字会等の協力を得て保護されてゐた。(p325)