冷酷な意図?

『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 下巻』上坂冬子

 だが敗戦日本に向けて重慶政府が掲げた「以徳報怨」のスローガンはあくまで日本向けで、このあと蔣介石の指令によって梅花山にあった汪兆銘の墓は一挙に爆破されたのであった。汪兆銘の末娘で、現在香港に在住する汪文恂が、何応欽将軍になぜ父親の墓を爆破せねばならなかったのかと抗議したところ、彼は、
 「さあ、なぜでしょうねえ」
 ととぼけてみせたと伝えられている(『漢奸裁判史』)。
 かくて日本の敗戦とともに、汪兆銘のすべては木っ端みじんに消えたのであった。(p97)


『昭和精神史』桶谷秀昭

 蔣介石は、先に引用した汪兆銘の通電を受取ると、一九三九(昭和十四)年元旦、国民党臨時中央常務委員会を招集し、汪兆銘とその同志の党籍の「永久剝奪」を決議した。
 汪兆銘夫妻は、秘書曾仲鳴夫妻とハノイに逼塞してゐたが、三月二十一日未明、重慶政府の特務機関藍衣社が放つた暗殺者に襲撃された。暗殺者は汪を襲ふつもりで誤つて曾仲鳴の寝室に拳銃を乱射して射殺した。
 暗殺を直接命じたのは特務の首領戴笠であるが、戴笠が蔣介石の命令を受けた確証はない。元旦の臨時中央常務委員会では、蔣介石は寛大な処置を提案したが、林森、呉稚暉、張継ら委員の強硬意見が通つた、と楊樹漂著『蔣介石伝』は書いてゐる。
 しかし、蔣介石の寛大な発言こそが、彼の冷酷な意図の隠れ蓑であつたといふ推測も可能である。当時の国民党内部の派閥確執にともなふ陰惨な雰囲気には、会議の発言など真に受けてゐては到底推し測れない無気味なものがある。
 この二か月ほど前には香港で汪派の林柏生が戴笠の部下にハンマアで滅多打ちにされてゐるし、汪の甥の沈次高も殺されてゐる。
 汪兆銘は身の危険を感じてハノイを脱出した。影佐、犬養ら日本側と連絡をとり、七百五十トンの発動機船で洋上に出、山下汽船会社の北光丸に移つて、上海へ向つた。(p512)