汪兆銘を「民族罪人」にした江沢民の抗日戦略の浅慮

『日本人が勇気と自信を持つ本』高山正之

 蒋介石が汪の墓を爆破させた

 汪兆銘は日本と中国が手を握ることの世界的、歴史的な意味を考えた。しかし彼とともに国民政府を仕切る蒋介石は、逆に英米に接近した。そして多額の援助と引き換えに彼らの「日中を離反させろ」の思惑に乗って、日本と対決する道を歩んでいた。
 中国人には華夷秩序が刷り込まれている。欧米に尻尾は振っても、日本如きから指図は受けないという気分か。
 汪はあの「君は栄光の道を歩め、われは苦難の道を行く(君為其易/我任其難)」を残して蒋と別れて1940年、南京に新政府を樹立した。日本との連携に踏み切ったのだ。
 日中分断を狙う欧米列強はいち早く日本の傀儡政権だと批判し、蒋もまた欧米の援助ほしさに彼を「漢奸」と罵った。
 汪はその4年後、古傷が悪化して名古屋大学病院で波乱の生涯を閉じる。遺体は彼の遺言に従い、師の眠る中山陵に近い梅花崗に埋葬された。
 冒頭、彼の墓が「かつてあった」と書いたのは、戦後、易き道を歩んだ蒋が汪の墓を爆薬で跡形ないまでに破壊したためだ。
 さらに毛沢東の後に出てきた江沢民が、この墓地跡に後ろ手に縛られ跪いた姿の汪兆銘の石像を置き「民族罪人」の看板を掲げ、執念深く汪の霊を辱めた。

 道行く市民が石像に唾を吐く

 死者の冒瀆は中国人特有のものだ。古くは春秋戦国時代、楚の国の人、伍子胥がいる。彼は父を楚の平王に殺されると、呉に逃れてその軍師になり、祖国を攻め滅ぼした。そしてすでに埋葬されていた平王の墓を暴き、遺骸を「鞭打つこと二百」とある。
 辱めのために像を造る、というやり方のオリジナルは宋の宰相、秦檜だろうか。
 彼は女真族と和議を進め、主戦派の岳飛を粛清する。ところがその死後、歴史の再評価があって岳飛は一転、救国の英雄に。一方の秦檜は逆に天下の悪人とされてしまった。
 河南省安陽にある岳飛の廟には秦檜の名を刻んだ碑が置かれ、詣でる人たちは彼に唾していくのがしきたりだ。日本人には到底理解できない「恨みの作法」だ。
 ところで、蒋介石汪兆銘を恨むのはよくわかる。汪の夫人、陳璧君が法廷で証言したように蒋は阿片戦争以来、中国を食い物にしてきた欧米列強に媚びた民族の裏切り者で、汪の存在自体がそれを告発していた。だから彼を抹殺したのだ。
 しかし、江沢民がなぜ汪兆銘を秦檜並みに辱める石像を作ったのか。それも梅花崗だけでなく、実は浙江省海門鎮にも汪兆銘夫妻の石像を置き、道行く市民に唾を吐きかけさせ、それを教科書にも載せている。
 江沢民が汪の像を作り始めたのは、1980年代になってからだ。つまり毛が「超英追美(英国を追い越し米国に追いつく)」を旗印にした「大躍進」の失政で3000万人を殺し、続く文化大革命でまた数百万人を殺した後になる。
 中国共産党のもつ残酷な素顔に国民が気付いたときと合致するが、江沢民はその非難をよそにそらさなければならなかった。
 それで彼は歴史の改竄を始めた。半世紀も前に、蔣介石派のドイツ人武器商人ラーベが南京で日本軍が中国人市民4万人を殺した、という見てきたような嘘を作っていた。
 江沢民はこれを30万人に水増しした。中国共産党は国民3千数百万を殺したが、面白いもので、敵国人が殺す中国人1人は中国人が同胞1万人を殺すのに匹敵する。ロサンゼルスでは毎年1500件ものむごたらしい殺人があるが、それでもイラクで米兵1人が処刑されるほうに強い怒りが働くのと同じだ。
 江沢民は30万人説を捏造して南京に大虐殺記念館を作り、さらに盧溝橋に抗日記念館をつくり、さらに巨大な抗日モニュメント公園をその近くに建設した。

 「中国人の首を刎ねる日本兵

 満州事変では「9・18抗日記念館」を建設した。張作霖と息子学良は、満州を荒らした山東省出身の華人馬賊だが、日本に敵対したというその一点だけで英雄に仕立てた。
 日露戦争の旅順は中国人観光客も多い。あの水師営の会見場となった農家もあるが、そこには「中国人の首を刎ねる日本兵」の写真が壁一面に貼られている。本当は国民政府軍が匪賊を処刑している写真だ。
 江沢民はそういう歴史の改竄をやっていて汪兆銘に行き当たった。「中国は日本を手本とし、手を組めと主張した。有害な思想だ。歴史から抹殺し、彼を辱めろ」という展開なのだ。
 彼はこの類いの反日記念館や施設を、200も建て、そのすべてに揮毫している。
 彼の思い通り中国人は共産党政権の血まみれの過去は忘れ、日本への憎しみを増していった。
 蒋介石は目先の援助ほしさで、江沢民共産党政権の延命のために日中が手を握る機会を潰した。そしてそれ以上に、日本人が顔を見るのも嫌になるほど中国嫌いにした。(p221)