日中媾和の機会が流れた原因

『昭和精神史』桶谷秀昭

 ところでトラウトマン調停による日中媾和の機会が流れた原因は、複雑な要因が錯綜してゐて、一つにしぼることは不可能である。しかし、一九三七(昭和十二)年暮から翌年正月にかけて、時を遷延して、機会を逸したのは、日本側よりは蔣介石の側であつた。
 そのことを汪兆銘が痛いやうに知つてゐた。いまそのいきさつをかいつまんでいへば、十二月二日に、陥落前の南京で蔣介石は外交部次長徐から、日本政府の停戦条件の報告を受けた。
 (一)内蒙の自治、(二)北支非駐兵区域の拡大、(三)上海停戦区域の拡大、(四)排日問題の処理、(五)防共問題、(六)関税改善、(七)中国政府は外国人の中国における権利を尊重する。
 蔣介石は、「これくらゐならば亡国的条件ではない」ことを認め、談判の基礎としていいといつた。やがて十二月二十四日に、日本からより詳細な第二次回答が来た。南京はすでに陥落してゐる。漢口で、十二月三十日から翌年元旦にいたる三日にわたつて、最高国防会議がひらかれ、大晦日に、トラウトマン調停による和平条件を受諾することを全員一致で決定した。会議の主席は蔣介石、副主席は汪兆銘である。
 するとその直後、すなはち元日に、蔣介石は突然、内閣改造をおこなひ、自分は行政院長を辞し、副院長の孔祥煕を院長に昇格させた。これは、自分は媾和の責任を取らない、といふ意思表示である。
 すでに十二月二十七日の日記に、蔣介石は、
 「倭寇のかかる提出せる条件は、我国の征服と滅亡に等しい。屈服し滅亡するよりは、戦つて敗れ亡びるに如かず、厳として回答を拒絶すべし。」
 と書いてゐる。彼はその意見を最高国防会議の席上ではつきりいつたかどうか、わからない。蔣介石は無口で、とりわけ重大なことは黙つて断行する習癖があるから、会議で態度をはつきりさせなかつたと考へられる。とにかく、蔣介石の機関決定を無視する行動によつて、和平決議はうやむやになつた。
 しかし、この間の蔣介石の態度は一貫してゐるとはいひがたい。動揺が、いつたんは和平受諾から拒否までの振幅に認められる。西安事件での共産党との抗日の密約の拘束があり、さらに抗日の大衆的動向への顧慮がはたらき、媾和によつて自己の政権を失ふのを怖れたと思はれる。
 事実、このあと蔣介石は、外交部亜洲司長高宗武に月八千元の経費を出して、香港に遣り、日本側の和平の意志に関する情報をさぐらせようとしてゐる。これは侍従室副主任周佛海の口添へによる。しかしまた、いざ高宗武が香港に発つ直前に、「香港へ行くな」と命じてゐる。
 木乃伊取りが木乃伊になる危険を感じた。といふより、和平派に乗ぜられる自分の危険を予感した。周佛海は和平派の中心人物で、彼のグルウプは "低調倶楽部" などといはれてゐた。
 高宗武は蔣の命令を無視して香港へ行き、さらに日本へ行つた。そこで影佐、犬養らと接触することになる。そのことを知つた蔣介石は、「慌唐(ホワタン)、慌唐」(あわて者め)と吐き出すやうにいつて、ほかは何もいはなかつた。
 一九三八年六月二十四日の日記に、
 「高宗武擅自妄動、可謂胆大妄為矣!」
 と忌ま忌ましげに記してゐる。 "胆大妄為" は "図太くて没義道なことをする" といつた意味である。
 したがつて汪兆銘重慶を脱出したことを知つたときは、たいへん驚いた。
 「此事殊所不料。当此国難空前未曾有之危局、不恤一切、払袖私行、置党国於不顧、是豈吾革命党員之行動乎? 痛惜之至! 惟望其能自覚回頭耳!」(実に思ひもかけぬことだ。この未曾有の国難に際して、なりふりかまはず、肚を立てて勝手なことをし、党と国を顧ない。これが革命党員の行動であるか。痛惜の至りである。めざめて翻意あるを望むのみ!)(十二月二十一日日記)(p510)