汪兆銘の和平運動のきつかけ

『昭和精神史』桶谷秀昭

 汪兆銘の和平運動の直接のきつかけを作つたのは、すでに挙げた諸要因のほかに、蔣介石の焦土戦術がある。
 事変二年目の五月、徐州は陥落し、敗走する中国兵を追撃して、日本軍は隴海線を西へ進み、蘭封、開封を占領し、京漢線(北京漢口間の鉄道)と隴海線の交叉するところ鄭州に迫つた。鄭州が落ちれば、京漢線をまつすぐに南下して日本軍は漢口に進撃するであらう。これを防ぐ武力が準備できないので、蔣介石は窮余の策として、鄭州の西方、中牟の北方において隴海線と平行して流れる黄河の堤防を爆破して、黄河の南一帯を水浸しにした。
 河水は幅約二十四キロ、長さ約八十キロにわたつて南へあふれつづけた。これによつて日本軍の進撃は一時阻止されたが、人的損害が皆無だつたのに、中国農民の被害は、「水没部落約三千五百、罹災民約六十万人、行方不明約十二万人」(中国側調査)に及んだ。
 いかに窮余の策とはいへ、敵国の軍隊よりは自国の民を虐待する心理、帝力われにありて何かあらんといふ中国農民の虚無思想にたいする支配者の虐待心理を、推測させるものがある。
 やがて武漢を撤退するときに、これを焼き払ひ、広東も民家、商店をすつかり焼き払つて撤退した。長沙は日本軍侵入の誤報によつて、まだ占領されないうちに徹底的に焼き払はれてしまつた。
 汪兆銘は書いてゐる。

 将来は重慶成都もすべておなじ運命を辿るであらう。しかもこのやうに大々的に焼き払ふ外に、なほ遊撃隊の小規模の放火があり、かくして中国全土を瓦礫灰燼に化せしめようとしてゐる。もしも和平の見込みがないならば、全部死滅するのもまたやむを得まい。しかし、もし和平の希望があり、和平の条件が国家の独立と自由に害がないならば、何故に民衆を駆つてあくまで死滅の路を辿らしむる必要があらうか? かかる叫びは前線及び後方の民衆は口を箝せられて発することができない。しかし被占領地域における民衆はすでにかかる叫びを発してゐる。私は何のために被占領地域に足を踏み入れたか? かかる叫び声に誘はれたからである。私はこの叫び声を、前線、後方の、口を箝せしめられて声を発し得ないでゐるものに結びつけたいと思ふのである。(『如何にして和平を実現するか』)

 一九三九(昭和十四)年八月九日の広東における放送演説である。だいたい政治演説といふものは、時務情勢の論理に発想するものであるから、汪兆銘の和平論も、蔣介石の抗戦論と相対的にみることもできる。一九四〇年に発足した汪兆銘南京政府が日本の傀儡といふなら、重慶政府は米英両国の傀儡政権なのである。(p518)