義戦

頭山満伝』井川聡

 明治二十七年、日本は、「眠れる獅子」と呼ばれた清帝国に立ち向かおうとしていた。
 日清戦争について、当時の日本人のほとんどはこれを「義戦」であると考えた。
 「日本は、長年にわたり、弱い朝鮮をいじめてきた横暴な清国を懲らしめ、朝鮮の独立を助けるために力を貸した」
 民権派にも国権派にも、そういう共通認識があった。
 明治十五年の壬午の軍乱、十七年の甲申政変では、清国に機を制され、日本の勢力は後退した。それだけに、今回はぜひとも清国を制し、朝鮮を助けたい。それには清国以上の兵力を送って、これに臨む必要があった。
 六月二日に出兵を決めた政府は、五日には広島に大本営を設置し、第五師団に動員命令を下した。開戦前、福沢諭吉は「時事新報」紙上でこう国民に訴えた。
 「政府の方針に絶対服従せよ。国民は生命も財産も捧げよ。犬にでも猫にでもなったつもりで政府を援助せよ」
 福沢は、いまここで官民一体となって外に向かわなければ、国際社会における日本の独立はない、とみていた。
 福沢は甲申政変後の明治十八年に「脱亜論」を発表して「アジア東方の悪友と謝絶」し、以後十年近くの間、朝鮮についてほとんど言及していない。
 これに対し、「興亜論」者である頭山満は朝鮮問題にかかわり続け、今回、義勇軍ともいえる「天佑俠」も送り込んだ。
 両者は本来、対立関係にあるはずなのだが、開戦にあたっての時勢認識は完全に一致していた。
 また、宗教家・評論家の内村鑑三は、英文で「日清戦争」という文章を書き、外国人に対して日本の立場の正当性を説いた。
 「これは外国人が考えるような欲の戦争ではない。正義の戦いである。われわれは永久の平和を目的として戦うのである」
 と。
 見事なまでに統一された興論について、外相陸奥宗光回顧録『蹇蹇録』に次のように記している。
 「朝鮮はわが隣邦なり、わが国は多少の艱難に際会しても隣邦の友誼に対し、これを扶助するのは義俠国である帝国として避けることができない行為であると言わない者はなく、いよいよ開戦となると、わが国は強きを抑え、弱きを助ける、仁義の師をおこすのであると言い、成敗の数を度外視し、これを政治的必要よりもむしろ道徳的必要から出たもののように考えた」
 開戦までは政府と衝突を繰り返していた野党も、日本軍勝利の報に熱狂し、万歳を叫んだ。
 彼らは藩閥政府を攻撃し、その提出する軍備拡充の予算を削減してきた過去をあっさり水に流した。一億五千万円の臨時軍事費は何の障害もなく可決された。
 清国にとって予想外のことだった。
 明治二十三年の憲法実施以来、日本政府と議会との間に争いが絶えないことを知っている清国は、日本は他国に軍隊を派遣するような大決断はできない、と高を括っていたからだ。
 侮りは隙を生む。戦争は、海に陸に日本の連戦連勝だった。欧米列強は、日本の底力に目を見張った。
 戦勝の結果、頭山と玄洋社が全力を傾注してきた英、独、蘭、露など各国との不平等条約交渉も一気に進み、明治三十二年までに次々と改正された。(p369)