広田外交と蔣介石・汪精衛

『抹殺された大東亜戦争勝岡寛次

 広田の出現により、日本と支那は急速に親密度を増していつた。支那側は排日運動の取締を強化し、日本側は昭和十年五月、在華公使館を大使館に昇格(初代駐華大使有吉明)することで、これに応へた。報せを受けた汪精衛は、「これで両国は東亜の大道を、手をとって歩ける」と、少年のやうに喜んだといふ(北川晃二『黙してゆかむ――広田弘毅の生涯』)。
 だが、両者の交渉は、ぢきに暗礁に乗り上げた。表面的な親日態度とは裏腹に、蔣介石の本心は反共反日だつたからである。これについて赤裸々に暴露してゐるのは、陳公博(汪精衛の後継者。戦後「漢奸」(売国奴)として処刑された)の回顧録である。

 彼[蔣介石]は都合のよい算盤ばかりはじいていた。彼の考えでは共産党を討つためには日本と組まなければならないし、日本を討つためにはソ連と組まなければならない、と。当時、共産党は江西に蟠踞していたが、いまソ連と組めばいたずらに共産党を大きくすることになる。そこで蔣介石はひとまず汪先生…に日本との妥協を図らせることにし、自分は共産党の撃滅に専念する。そして共産党を徹底的につぶした上でソ連と軍事同盟を結び、鉾先を日本に向けて東北四省[満州]を取り返し、また華北も日本の桎梏から解放する。こうすることにより蔣自身は間違いなく民族的英雄に祭り上げられると考えていた。(陳公博『中国国民党秘史』)

 かくして、広田に呼応して誠心誠意日本との積極的な国交調整に乗り出した汪精衛も、蔣介石の二枚舌には何度も泣かされる羽目に陥つたのであつた。

 …滿洲問題の全面的解決を企圖し、かくすることによつて中國は滿洲を失ひ、北支に何ほどかの失ふものがあつても、結局事態をこれ以上擴大せしめずして、中日間百年の計を樹立すれば、兩國にとつて得るところは大であるとし、この信念を蔣に進言してどうだと念を押したのである。勿論これについて苦慮してゐた蔣は、…『よろしい、やつてくれ』とはつきり斷言した。(中略)ところが、…實際の仕事を始めしめると一部から反対が起り、その立場は苦しいものとなつたので、…蔣は『そんな約束をした覺えはない』と噛んで吐き出すやうに放言したのだつた。わたくしは又もや煮湯を呑まされて、…北支に於ける仕事も水泡に歸してしまつた。(『汪精衛自叙傳』)

 先の陳公博も、この点を裏書きして次のやうに言ふ。

 汪先生が対日妥協を主張した裏には、蔣介石がそれを強く望んでいたという事情があったからなのに、いざその通り講和をすると、その弱腰外交の責任を全部汪先生にかぶせてしまった。もとより蔣介石にもそれなりの苦しい事情はある。中国は対外戦争の準備を全くととのえておらず、開戦は事実上不可能であった。(中略)…が、そのことを公言したら人望を失う。だから…デマ宣伝をして、蔣介石はいつでも戦う用意があるが、戦争をさせないようにしているのは汪先生だと吹聴した。(中略)
 こんな具合で世は挙げて蔣介石万々歳となり、(中略)対日妥協を主張したという汪先生の罪名はますます広く定着していった。(前掲『中国国民党秘史』)

 かうした情勢の中で、汪精衛は同年(一九三五)十一月、反日派の放つた凶弾に倒れ、一命は取り留めたものの、翌月には外交部次長唐有壬も暗殺されてしまふ。
 その後も日支国交調整は、行政院長を蔣介石が、外交部長を張群が引き継いで続行されたが、度重なる交渉も何ら実りあるものとはならず、やがて支那事変の勃発により、両国は果てしなき戦争へと突入していくことになるのである。(p304)