支那事変勃発の真因

『抹殺された大東亜戦争勝岡寛次

 蔣介石の片腕として敏腕を振つた外交部長の張群は、この失敗に終つた日支国交調整を回想して、次のやうに言ふ。

 …私が[外交部長を]退任するとき[一九三七年二月]には、日華外交は、すでに交渉が成り立たない状態になっていた。(中略)日本軍閥の勢いは、すでにとどめるすべもなく、予定通りの侵華戦争を積極的に準備していた。(中略)
 …日本の中国侵略は、すでに時間の問題とみなければならなかった。(張群『日華・風雲の七十年』)

 支那事変勃発の原因を、専ら「日本軍閥」の「中国侵略」に求めるかうした論調は、今日の中共にも共通するお決りのものであるが、奇妙なことに、事変勃発後、張群は陳公博に向つては、次のやうに語つてゐたのである。

 「あなたは知らないだろうが、中日両国は全く戦う必要はなかったのだ。むしろ我々は多くのチャンスを逃してしまった。私は外交部を辞めて駐日大使になりたかった。当時日本は中日問題をどう解決したらいいのか、その方策を求めていたのだ。(中略)しかし蔣介石がこれを許してくれなかった」(中略)
 「西安事変のお蔭と言ってはなんだが、そのために蔣介石の心はすっかり共産党のとりこになってしまった」張群はこう言って長い溜息をつき、黙り込んでしまった。(陳公博『中国国民党秘史』)

 張群の前掲回想録のトーンとは、全く様子が違ふことに驚くのである。どちらが張の本音であるかは、敢へて説明の要もあるまい。西安事変(事件)とは、言ふまでもなく一九三六年(昭和十一)十二月、西安で蔣介石が張学良によつて監禁され、自らの助命と引き換へに、「内戦停止」「一致抗日」といふコミンテルンの主張を呑まされた事件を指す。以後、蔣介石は共産党との協力並びに対日開戦を強ひられる、クレムリンのロボットに成り果てたのであつた。(p306)