楊虎城の謀殺

『蔣介石神話の嘘』黄文雄

 楊虎城の謀殺

 楊虎城は、張学良とともに「西安事変」主役の一人である。重慶中共軍の手に落ちる直前の一九四九年九月に重慶で殺された。
 彼だけでなく、十七歳の次子、八歳の娘も殺された。もちろん楊一族だけでなく、楊秘書の宋綺雲夫婦、まだ十歳に満たない子供の宋振忠、さらに副官の閻継明、ボディガードの張醒民までが刀でめった打ちにされ、惨殺された。楊は生き埋めにされたという説もあるが、それはまちがいだ。
 惨殺されたのは一九四八年九月六日(十七日という説もある)。殺害の命令を下したのは蔣介石で、指揮者は特務のボス、毛人鳳である。場所は重慶の「戴公祠」で、蔣の側近だった戴笠を祠るところである。
 楊一族が皆殺しされてから二ヵ月後、重慶がついに人民解放軍の手に落ちた。十一月三十日である。その翌日の十二月一日、捕虜にされた戴公祠の衛兵十一名の証言によって虐殺された死体の場所が発掘され、その真相が世に知られるようになった。沈酔の『軍統内幕』にその詳しい殺害状況が書かれている。(p161)


 蔣にとっては、「西安事変」の首謀者張学良と楊虎城の二人は、どうしても許すことができなかったのだ。蔣は、張、楊二人に対して恨み骨髄で、張がいくら事変は自分一人の独断で決めたのだと主張しても、蔣は信じようとしなかった。蔣の著とされる『中国の中にあるソ連』(『蘇俄在中国』陶希聖代筆)の中に、「このことについて予想外なのは、首謀者は実は張学良自身で、最初に主張したのは楊虎城である。その前に、このことについて共産党と何の相談もしなかった」と蔣は考えていた。親の主張からの影響だろうか、蔣緯国も「西安事変」の首謀者は楊虎城だと決めつけている。
 張学良が蔣に幽閉されたにもかかわらず、楊はなおも西安で反蔣活動を続けていた。蔣は楊をどうしても許せなかったのだ。
 蔣は下野のたびに、その恨みがなかなか消えない。たいてい誰かを殺して、そのうっぷんを晴らす。第一次の下野では王天培を殺した。第二次下野では鄧演達を、そして第三次下野のときに楊一族を皆殺しにしたのだ。(p162)