ポピュラー音楽の世紀

『ポピュラー音楽の世紀』中村とうよう

 よく知られているように、ジャズはニューオーリンズという町で生まれた。ここはアメリカのなかでも特異な背景をもつ町だった。イギリスの植民地から独立した東部諸州と違い、ミシシッピ川の流域はもともとフランスの植民地で、十九世紀の初めになってナポレオンがアメリカ合衆国に売り渡したのだが、その中核都市ニューオーリンズは、あとあとまでフランス文化の名残りをとどめていた。(p16)


 そして黒人詩人リロイ・ジョーンズ(現在はアミリ・バラカ)も六七年の『ブラック・ミュージック』で《白人がインテリであればあるほど、…かれらは黒んぼたちから盗んでこなければならない。かれらは、初めから終わりまでわれわれから盗み通しなのだ》と告発した。
 白人たちもヨーロッパ的な音楽伝統だけでは充分に生きてはゆけないことを自覚せざるを得なかったのが、二十世紀である。それは、美しいメロディをきれいな声で歌うだけじゃない音楽が聞きたい、という以上に、体の奥から揺さぶってくれるようなビートを求めてやまない、ということであった。そんな欲求に応えられるものは、肉体の解放による満足感と高い精神的な喜びとを合一させたアフリカのダンス音楽しかない。(p45)


 アメリカではキューバと違って、このようなアフリカ的な伝統は奴隷制度のもとで徹底的に圧殺されてしまい、宗教はプロテスタントしか許されなかった。黒人と白人とが共存し音楽も混ざりあってきたという点で事情は似ているのに、カリブではアフリカン・ビートが生き続けアメリカではそれがほぼ表面から消えるという大きな違いが生じた最大の原因は、宗教を核とするアフリカ系コミュニティが生き続けたかどうかにある。(p52)


 音楽を支える基盤が下層労働者たちかそれともインテリの中産階級なのか、という問題は、ポピュラー音楽の本質にかかわる重要なポイントだが、多くの国や地域でもっとも貧しい階層の人たちが二十世紀のポピュラー音楽を発展させる原動力となったのに対して、アメリカ音楽ではそういう下からの盛り上がりの要素は希薄だ。最初から音楽がビジネス主導で動いてきたからだ。その点にこの国のポピュラー音楽の抱える根本的な問題があるとぼくは見ているが、フォスターの周辺にすでにそうした問題の萌芽がはっきりと姿を現していた。(p11)