秦郁彦説の誤り

『「東京裁判」を裁判する』渡部昇一

 そのうちに田中正明先生の本を読んだり、あるいは鈴木明さんの『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋社)を読んだりして、ますますそう思うようになった。その後、軍事史の学問的な研究者である秦郁彦さんが『南京事件「虐殺の構造」』(中公新書)という本を書かれた。その中で秦氏は、曽根一夫という兵士の手記をもとに南京戦についてふれている。元兵士の手記であれば当時の状況を物語る一番いい証拠になる、というわけであろう。そうした史料をもとに、秦氏は、日本軍は大体四万人ぐらいを虐殺したと推定している。それまでは三十万人虐殺説が定説とされていたから、十分の一近くになったわけである。これは大きな功績で、本が刊行された当時、心ある人はその研究を喜んで受け入れたものである。
 ところが、問題が生じた。秦氏がその手記を最も重要な資料として引用した曽根一夫という人が、実は南京戦に参加していない兵士だったとわかったのである。要するに、戦後になってから南京大虐殺についての東京裁判の話などが流れているのを聞いて、日本軍は残虐だったという物語を自分の空想なども交えてでっち上げたらしい。それが暴かれたことによって、秦氏の唱える四万人を虐殺したという説そのものが揺らいでしまったわけである。
 私はたまたま仙台に行ったとき、曽根一夫という人の親類に会い、話を聞いたことがある。そのときにその親類の人が「あいつ(曽根一夫氏)はもう嘘ばっかり書いて困ったやつだ」と言っていたことを非常に印象深く思い出す。
 そういうわけで、私は秦氏の四万説も多すぎるのではないかと考えるようになった。むしろ "まぼろし説" と言われている田中正明さんたちの主張のほうが実情に近いのではないかと思うようになった。(p07)