オープン・シティ

『「東京裁判」を裁判する』渡部昇一

 このオープン・シティというのは近代戦の作法なのである。日露戦争では奉天大会戦が最後の戦いになるが、奉天は戦場になっていない。奉天を守りきれないとわかったロシア軍が逃走したからである。それから支那事変でも、北京はオープン・シティにしているから全然傷ついていない。もちろん虐殺もなかった。保定という大きい町もオープン・シティにしたために何も事件は起こらなかった。さらに重要なのは武漢三鎮の漢口である。ここも大都市であるが、オープン・シティにしたために何の被害も出なかった。当時そこにいた欧米人が書いているが、日本軍が入城してきたときも住民は普通に商売をやっていたというのである。
 実は、蔣介石は南京もオープン・シティにするつもりだった。蔣介石はまっとうな軍人だから、市民に被害が及ぶことを恐れたのである。ところが、唐生智という将軍が南京死守にこだわったため、蔣介石も折れて唐生智に南京を任せ、自分は漢口に向かった。
 そういう時期に、日本がオープン・シティにしろというビラを撒いた。そのビラにはオープン・シティにするに当たっての交渉をする日時と場所まで明記していたが、そこに唐生智は現れなかった。
 日本にしても戦闘になれば市街戦となり自軍にも死者が出るから本当はやりたくはない。できればオープン・シティにしてもらったほうが都合はいいのだが、交渉相手が現れなかったために、やむを得ず総攻撃をすることになったのである。
 そして総攻撃で突入すると、中にいたシナの兵隊は殺されるのが嫌だから住民の着物をはぎとり、民間人になりすまして安全地区に逃げ込んだ。その際に抵抗する人間は殺してしまった。これについてはアメリカ人の二等書記官の記録が残っている。(p131)