西安事件――「最後の五分間」から蘇生した中共

大東亜戦争への道』中村粲

 「最後の五分間」から蘇生した中共

 人民戦線戦術の最大の成果――それはソ連中共さへ予期してゐなかつた――は昭和十一年十二月に起きた西安事件であらう。事件は今なほ、完全に解明されたとは云へないが、この事件は、醸成されつつあつた国共合作の気運を一挙に具体化し、日支対決によつて自己の蘇生を図らんとする中共のかねての策謀を現実化し、斯くして蘆溝橋事件への直線道路を準備したものとして重大な歴史的意義を有する。
 既述の如く、昭和十一年ごろ、西遷を終へた陜西省の中共軍は極めて微弱な兵力でしかなかつた。されば中共としては、国民政府の掃共戦を止めさせ、その矛先を日本軍に向けさせて日華相戦はせることが、自己の延命のために絶対に必要なことなのであつた。兵力激減した中共軍は気息奄々、蔣介石の手記『西安半月記』によれば、掃共戦の成功は「最後の五分間」の段階まで来てゐたのである。(p374)


 蔣介石を逮捕監禁

 昭和十一年十月下旬、蔣介石(行政院長兼軍事委員長にして西北剿匪総司令)は学良の掃共戦を督励するため西安に飛んだが、その頃はすでに、東北軍の掃共戦は事実上停止されてゐたのであつた。
 事件は十二月十二日早朝に起きた。東北軍将校の率ゐる一隊が、西安東方の温泉地・華清池に滞在中の蔣介石を逮捕し監禁したのである。蔣に随行してきた中央政府高官も一斉に逮捕監禁、あるいは射殺された。西安城内では楊虎城の軍隊が憲兵隊と警察を襲撃し武装解除した。
 その夜、張学良と楊虎城は全国に通電し、

 (一)南京政府を改組して各派の参加を許し、ともに救国の責任を負ふこと
 (二)一切の内戦の停止
 (三)愛国的領袖(抗日運動指導者)の即時釈放
 (四)全ての政治犯の釈放
 (五)民衆の愛国運動の自由
 (六)集会・結社の自由の保証
 (七)総理(孫文)の遺嘱の実行
 (八)救国会議の即時開催

の八項目の主張を発表した。その内容は、当時中共が唱へてゐた要求と殆ど変はらないものであつたため、内外に与へた衝撃は一層大きなものがあつた。
 事件の報に接した中共では、蔣の人民裁判を主張する者も少なくなく、毛沢東自身の意見は「殺蔣抗日」であつた。本家のモスクワの指示を仰いだところ、スターリンからは「連蔣抗日」と蔣介石の釈放を命ずる指示が届いた。スターリンの電報に接した毛は「真赤になり、悪態をつき、足を踏みならして怒つた」と伝へられるが、スターリンとしては、蔣を釈放しない場合は、国府軍によつて中共軍が潰滅させられること、また蔣に代つて反共・親日家の汪精衛が政権を取ることになるのを惧れたものと思はれる。(p375)


 中共に救援求めた学良

 その後、学良ははじめて蔣介石に八項目の通電について伝へ、受諾を求めたが、蔣は全く取り合はず、逆に学良の反逆の誤りを指摘した。
 二十二日には、遂に蔣夫人の宋美齢が「虎穴に入る」かの如く、宋子文、ドナルド(オーストラリア人。蔣家の私的顧問)らと共に西安にやつて来た。宋美齢は学良に、その行動の非を説くと共に、蔣の解放を求めたが、学良は、蔣の解放には楊虎城が反対してゐると答へた。翌二十三日には、ある「有力者」と面談した、と宋美齢の『西安事変回憶録』は記してゐる。
 その「有力者」が周恩来であることは間違ひないと考へられてゐる。周恩来は、中共は事件とは無関係であること、蔣委員長以外に全国を指導できる者の居ないこと、また蔣委員長の救国の誠意は信じながらも、その処置の迅速ならざることを恨むのみ――などを述べたと云ふ。この面談で周恩来は、蔣の解放を楊虎城に勧告することを宋美齢に約束したとも云はれる。
 中央軍の停戦期限の最終日である二十五日、張学良は蔣介石の釈放を決定し、楊もこれに同意した。斯くして蔣は十二月二十五日夕、飛行機で西安を離れ、翌二十六日南京に帰還して事件は漸く落着した。(p377)


 永遠の謎か――釈放条件の有無

 さて蔣介石が無事に南京へ帰還できたのは、蔣が何らかの交換条件を学良らに対して約束したからなのであらうか。この重要な点は今なほ不明の儘に残されてゐる。
 中共側は、蔣が内戦停止、一致抗日を約束したと主張し、国府側は蔣の釈放に交換条件は一切なかつたと反論する。事件中に蔣介石が記した日記である『西安半月記』にも、蔣が、学良の要求を終始、峻拒したことしか書かれてゐない。…
 蔣介石、周恩来ともすでに世を去り、事件の陰の演出者と云はれ、日本人の間にも知己の多かつた苗剣秋も物故した今、事件の真相を知るはただ一人、台湾に老後を送る張学良その人のみである。が、国府軟禁下にある学良の口から、蔣の名誉と国府の歴史に汚点を残す事柄が語られる筈もなく、事件の真相は永久に陽の目を見ることはあるまい。
 では、真実は何れにあると推量すべきなのであらうか。筆者の推論はかうである。
 西安に於て中共は、蔣の体面を重んじて釈放条件に署名を要求しなかつたことは事実であらう。これについては中共自身が明言してゐるからである。だが、口頭である程度の譲歩を蔣から取りつけたことは、まづ確かなことと思はれるのである。即ち蔣は、交換条件への署名や具体的な約束はしなかつたにせよ、中共幹部と学良達に相当程度の期待を抱かせるやうな発言はしたのではあるまいか。
 事件後の国共合作の進展は、この推論の正しさを一面で裏づけてゐるのではないかと思はれるのである。(p378)


 中共蘇生し、北支緊迫す

 にも拘らず、この年一月に内戦即ち掃共戦は停止され、「あと五分間」の命から中共は蘇生した。即ち一月六日、西安の西北剿匪総司令部が廃止され、これによつて、十年間に及ぶ国共内戦が事実上停止されたのである。
 親日派の外交部長・張群は罷免され、反日・欧米派の王寵恵が就任した。その結果、張群の「一面抵抗・一面交渉」の外交路線は、欧米寄りに大きく方向転換することになつた。
 前述の如く、抗日路線は必ずしも一本化されたわけではなかつたが、抗日戦準備は経済事情の一時的好転も手伝つて、積極的に推進された。一九三七年(昭和十二年)度の国民政府の軍事費は国家予算の七〇パーセントに上り、この巨額の軍事費を背景に陸軍百七十万人が整理され、百万を越える国民の軍事訓練が開始された。ソ連中共の術策にのせられた中国は、俄然、軍国主義と戦争への道を狂奔し始めたのである。
 北支は緊迫した。ここには宋哲元の第二十九軍十万、東北軍十一万など四十万の中国軍が五千の我が支那駐屯軍を包囲し、更に徐州・隴海線一帯には、中央軍三十五万が待機して北上の機会を窺つてゐた。他方、各界救国連合会など反日諸団体の抗日気運も日を逐うて激成されて行つた。これが蘆溝橋事件発生直前の北支の状況であつた。中国内戦を対日戦争に転化させた一大動因としての西安事件――それは東亜近代史に於て特筆大書の意義を有すべき事件であつたと云へる。(p380)